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コラム

プラチナの誕生から現在までの歴史


プラチナ貴金属の塊

 

地球上にはさまざまな金属が存在しています。 

その中でも宝飾需要や投資需要の高い金・プラチナ・銀は美しい輝きや希少性から愛され続けており、特にプラチナはしなやかな輝きを魅せることから多くの日本人から人気を集め、今や欠かすことのできない金属のひとつになっています。 

そんなプラチナはいつ誕生し、どのような歴史を歩んできたのでしょう? 

今回は意外な歴史を持つプラチナについて紹介していきます。

 

 

プラチナの始まり

プラチナの歴史を語る本

 

今から3,000年以上前の古代エジプトでファラオが装身具として初めて使用していたと言われています。 

現存する最古の製品は、紀元前700年頃にテーベ王国の女性神官であるシュペヌペットの遺跡から出土した「テーベの小箱」と言われる化粧ケースになります。 

この化粧ケースの片面には金が使用され、もう一方の面には象形文字を刻んだプラチナが使用されており、今はフランスのルーヴル美術館に展示されています。 

 

一説によると、約20億年前に巨大な隕石が地球に衝突したことで誕生したとも言われています。 

しかし、「テーベの小箱」のように現存するものが出土されているわけではありません。 

ただ、どちらにせよ、紀元前から使用されていた大切な金属であったと考えられます。

 

 

古い時代では“邪魔者”扱いであった

 

紀元前から使われていたプラチナも中世では “邪魔者”として敬遠されることとなります。 

その理由が扱いにくさでありました。 

 

プラチナに限らず、金や銀であるすべての金属は加工するにあたって火で溶かす必要があります。

しかし、プラチナの融点が1,769℃で、金の1,064℃や銀の961.8℃と比較しても高く、溶けない金属に価値を見いだすことができなかったのです。 

さらに、変質しにくく薬品にも強いことから、例え採掘されたとしても取り除かれていたりし、その取り除き作業の苛立ちから「無価値な金属」と酷評されていました。 

 

本来なら時代の経過とともに加工の技術が発展するはずですが、この時代においては紀元前の人々の方が金属を加工する技術を持っていたことになります。 

どのような加工技術を持っていたのか今も謎に包まれたままです。

 

 

スペイン人との出会い

捨てられたプラチナの破片

 

中世以降、金属が豊富な南アメリカはスペイン人によって植民地化されます。

スペイン人は金の採掘とともにプラチナを発見しますが、あくまでも採掘の目的が金であったことからそのほとんどを取り除き、その中の一部は当時ヨーロッパで重宝されていた銀と勘違いされ本国に持ち帰っていました。 

しかしながら、銀よりもはるかに融点が高いため溶かすこともできず、ほぼ捨てられていたようです。

 

1735年、同じく南アメリカのニューグラナダ(現在のコロンビア、パナマ、エクアドル、ベネズエラ)の川でスペインの軍人ドン・アントニオ・ウローラが銀に似た金属発見します。 

その金属は「プラチナ・デル・ピント(川の小粒の銀)」と呼ばれ、今の「プラチナ」の語源と言われています。

 

 

ヨーロッパで注目を集める

プラチナの計量

 

1751年、ヨーロッパで研究が進み、実は希少な金属であることが明らかになります。

それを皮切りに、ヨーロッパ諸国で溶解や加工技術が競われます。 

その中でも一番成果をだしたのがフランスであり、当時の王であったルイ16世が「王様のためにある貴金属」であると、さまざまな装飾品を作りました。 

また、ローマ法王ピオ6世にプラチナの聖杯が献上されたり、スペインのカルロス4世は宮殿内にプラチナの間を作らせました。 

これにより、人々の関心が高まるとともに、さらに本格的な研究が行われていきます。

 

 

日本人との出会いはいつ?

 

江戸時代(1603年~1868年)の末期に遣欧使節(江戸時代に外交交渉した人)がロシアでプラチナと出会ったのが最初と言われています。 

江戸時代も終わり、1888年にプラチナ製の海中時計が輸入されています。 

その3年後の1891年には村松万三郎が日本で初めてプラチナの溶解に成功し、1910年にミキモトのカタログ、1914年に北原白秋の詩集タイトルとして使われています。 

そこから、装飾品であるジュエリーが広まっていったとされています。

 

 

世界に広まったプラチナ

プラチナの装飾品

 

1800年以降、ヨーロッパ各国でさまざまな研究が進められ、このプラチナを使ってアクセサリーを世界に広めた人物がいます。 

それこそがカルティエの3代目「ルイ・カルティエ」になります。 

1800年代後半から1900年代前半にかけ、その時代は金や銀が主流でありながらも、プラチナのアクセサリー加工へ熱を入れます。 

その結果、しなやかな特性を活かした「ガーランド・スタイル」を世に生みだし、王族や貴族から注目され、世界各国からも人気を集めたとされています。 

ちなみに、他の宝石商がその技法を取得できたのは30年かかったと言われています。

 

※ガーランド・スタイル 

しなやかなプラチナにダイヤモンドを美しく輝かせ、レース状の透かしたデザインで世界中の王室を魅了した正装用のジュエリー。 

 

最後に

 

今では多くのジュエリー製品で使われているプラチナも古い歴史を辿っていくと使えない「無価値な金属」として扱われていたことには驚きです。 

そして、人々を惹きつけるジュエリーとして世界に広げていったカルティエは、ジュエリーの歴史の中でも貢献度は計り知れません。 

これからの時代においても、さらに技術が発展することを考えれば、プラチナに次ぐ金属が現れる日が来るかもしれませんね。